繊細でナイーブで陰湿でネチネチとして正々堂々としたユウチュウバーきよねこ。

きよねこと言うユウチュウバーは四六時中ユウチュウブに張り付いていて現在のユウチュウブチャンネル数は全部で5つ。
メインチャンネルでは基本的に編集をしないスタイルで一日に10個程度も動画を出す(2017年08月29日現在)。
炎上系ユウチュウバーとしては駆け出しで登録者は1,130人。

最早上限のない昨今のユウチュウブのチャンネル登録者数としてはこれでも少ない方だが、彼は自分より登録者が多いキラー仮面(チャンネル登録者数2,997人)やヨタロー(チャンネル登録者数9,119人)等とも(ヨタローの動画ではたまに彼の名前が出る)交遊を結んでおり、のっぺりとしたネチネチとした外見とは別にある程度人を引き寄せる人間性は持っているようである。

炎上系にも関わらずコメント欄からアンチを排除するのも特徴で、以前シバターがプロデュースしたユウチュウバーであるウタエルが″見た目ヤバいやつだらけだぜ″と動画の中で(画像にモザイクをかけてだし遠回しに)ディスった際には″ウタエルさんみたいに顔を隠した人には言われたくないです″と動画の中で反論しており基本的に情報を晒していない人間が自分を一方的に叩くのが許せない人間なんだろう。
確かにネットは自分の情報を晒してない人間が闇討ちのようにして人を叩くし、陰キャラ程自分を棚に置いて陰キャラを叩くのできよねこ氏からしてもやってられないんだろう。
(しかし俗に言う炎上系にも関わらず賛成意見しかない彼のコメント欄は独特である。)

きよねこ氏は恐らく見た目どうりの人間で、しかし顔を出して自分の意見を言ってやろうと言う様を私は尊敬する。
他の炎上系ユウチュウバーとは違いブロガーと言う単語を出すのも気になったが確かに彼の性分はユウチュウバーと言うよりブロガーに近い。
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水に心を奪われるな。禁断症状で生きる屍になるぞ。

人中毒にならないようにしている。
人中毒になった所で適切な場所で供給されなくては辛いめにあう。
見てはいないが「マッドマックス 怒りのデス・ロード」のイモータンジョーは「水に心を奪われるな。禁断症状で生きる屍になるぞ。(映画ライターの高橋ヨシキの言葉を借りるなら「水中毒になった奴は浅ましいし水水言うようになってだめだ」)」と言う言葉を発し、詳しい背景は分からないが事実その通りだと思う。
砂漠では適切に水が供給されないだから水中毒にはなってはいけない。

中毒患者になれば粗悪なものでも必死になって求めて挙げ句自分を失うだろう。
癖で食事をすると後から考えるとそれほど食べたくない物を食べている感覚に似ている。
寂しい時や或いは自分が思った以上に人間関係が供給された時などは人中毒になるなと言い聞かせている。
中毒になれば今目の前に気まぐれにある縁をないがしろにし、足りないものばかりに目が行く。
中毒になった時の感情には純粋さがない。
だから上手くいかない。

感情の当事者には必ず正当性がある。だから面倒くさい。

人間は自分の感情に正当性を持つ。
仮に後で否定してもその時は正しいと思っている。
私は正当性は尊重したい。

仮に相手の感情が私にとってデメリットがあって否定したり相手の言葉を遮ったりした方がメリットがあるなら、そうする。
そうでないなら(そうしても変わらないなら)本人の感情がさせたいようにさせるしかないし、そうしないと基本的に人間は治まらないだろう。
本人は正しいと思っている、それについて私は何も思わない。
ただその感情が私にとってデメリットがある時、それが面倒臭い。
基本的に人間は好きなようにすれば良いと思うが、そこに利害の不一致があるなら否定したりできるだけ上手く受け流したりしなくてはいけない。



本人は正しいと思っている。
私はそれを尊重する。
でもそれが私にとってデメリットがあるなら否定する。
否定しても変わらないなら極力受け流す。

どうせ自分は全て正しいと言うような顔をした人間も責任の所在を問えない人間には、何もできない。
たまたま言える人間に感情をぶつけているだけで、同じ感情を持っても言えない人間には言えない。
最終的に我慢できることも窓口があるから、当たり散らしている。
でも窓口がなかったら当たり散らさない。
どうでも良い所詮はその程度の感情だ。
あるいは最後は泣き寝入りするしかないが現実として過ぎ去る程度の感情だ。

正当性がある、だから尊重する。
しかしその感情をどうするかはデメリットとメリットの問題。
正しかろうと正しくなかろうと、結局人間はメリットとデメリットで生きている。
正しかったら何でも許されるわけではないから同じ感情を抱いても相手を見て態度を変えるんだろう。

同じ事をしても、罪悪感を抱くべき人間と、罪悪感を抱かなくても許される人間がいる。
私は罪悪感を抱くべき人間だから罪悪感を持つが、他の人間には罪悪感を持たせれない事を私は知っている。
これは私が私でいるためのポーズだ。
同じ事をしても比重が変わるなら正直罪悪感なんて持つ必要性はない。
どうせ相手によって態度を変える程度の感情でしょう。

ブーメラン発言に予防線をはる駄目人間は面白くないがそれも仕方ない。

ネットにはやたらとブーメランと指摘するのが好きな人がいて、言論がブーメランになる人は一部の界隈で人気がでる。

極端な例にするなら自分にも当てはまる要素を自分とは真逆の事のように語ったり、自分にも当てはまる要素で他人を批判して自分にはまったくそう言う所がないと言うような人。
そう言う人に対して、ネットの人達はブーメランと言いたくなるようで、ネット民は常日頃からそう言う″ブーメラン″を指摘できる人を知らず知らずに探していると言っても過言ではない。
私はそう言う″ブーメラン″発言に対して予防線をはるタイプで駄目人間カテゴリーの某喫煙者もそのタイプ。



ブログのタイトルだけを見れば″ブーメラン″と言いたくなるような内容だが本文を見たらしっかり予防線がはってあったりして、″ブーメラン発言をした″と思い意気揚々と本文に乗り込むと意気消沈したりする。
でも結局、ブーメランと言って叩くなら私も含めたネット民はブーメランのような発言をする人が嫌いなんだろうと思うのだが、私も含めたネット民の言動を見てもどうもそうとは言えず、恐らくブーメラン発言をした相手に″ブーメラン″と指摘するのが一つのエンターテイメントみたいになっていて、予防線をはるようなブーメラン発言は一番私のようなネット民からしたらモヤモヤとする言動だ。



ブーメラン発言をする駄目人間と言うのは当然のように叩かれるが、そう言う人を叩く人達って普段からストレスや寂しさを溜め込んでいるような人達も多くいると私は思っていて、私は個人的にブーメラン発言をする駄目人間という存在はそう言う人達の心を一部救っていると言う意味ではとても尊い存在として見ている。

私もどうせ駄目人間なら予防線を外してブーメラン発言をしてみようかとも思うのだが、寂しくてストレスを溜め込んだ誹謗中傷しかしない言うなれば私と同じようなクズの心をそもそも救ってどうするのかという気もする。

クズの心を救うのには大変なストレスがかかる上、彼等は人を労ると言う気持ちも知らないので、例えばクズ界のキリストであるsyamu gameのシャムさんの知名度に憧れる人はいてもあのポジションに担ぎ開けられそうになったら誰だって尻込みをする。



キリストに唾を吐きかけるような人間をキリストは救おうとはしない。
その為クズはキリストとは違うクズの為の救世主を担ぎ上げる。

一度でもその地位に担ぎ上げられた人間は、クズの罵倒や嫉妬心、日頃人にアドバイスを出来るような身分ではない為、 アドバイスをしたくて堪らないような人間からすぐに矛盾点がでるようなアドバイスをぶつけられたりしたりと大変な事態になる。
だから私はブーメラン発言に予防線をはるのを辞めようかとも思うが辞めない。



クズと言うのは本当に可愛そうだ、自分の心を救ってくれる存在にさえ汚い感情をぶつけるから人が離れていく。
キリスト教徒はキリストを崇めるが、クズはクズにとってのキリストに唾を吐きかけ挙げ句偶像を壊してしまうから、いつまで立っても腹が空いたような感情から離れられない。
まるで地獄の亡者のような存在で救いの手に唾を吐きかけるような存在なのだからそれもしょうがのない。

運気が悪くなっているので人と接触するのが恐い。

最近運気が悪くなっているのを積極的に感じているので、正直全く外界と繋がりたくないが銭を得るためには外界に繋がらなくてはいけない。
不安なので文章が多くなり駄目人間カテゴリーのメンバーか或いは駄目人間カテゴリーを中心に見ている人達の有難いボランティアを経て私の心が少しは軽くなる。
最近結局私に出来ないことは出来ないのだと分かってきた。
桜井章一が言う所の″力の入った努力は疑え″だ。
キリスト教或いは、その派生であるイスラム教にまで影響を与えたかもしれないギリシア神話には、運命を暗示されその運命を真っ向から取り除くために極端な策に出て、挙げ句予言通りの結末を迎えたアクリシオスが登場するが、このままではこうなるという運命染みたものは生きている間に何度も示唆されるがそれは無理にはね除けるのではなく、影響力を極めて自然に無くしていくのが正解なのだと最近分かってきた。




「ユダヤ教」から「キリスト教」が出てきて、さらにまたこのキリスト教から「イスラーム」がでてくる
【ざっくり知る】キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の違い
ギリシア神話は、ローマ神話の体系化と発展を促進した。プラトーン、古代ギリシアの哲学や思想、ヘレニズム時代の宗教や世界観、キリスト教神学の成立など、多方面に影響を与え、西欧の精神的な脊柱の一つとなった。中世においても神話は伝承され続け、その後のルネサンス期、近世、近代の思想や芸術にとって、ギリシア神話はインスピレーションの源泉であった。
ギリシア神話とは



結局なるようにしかならず、出来るだけ自然に流れを変えて少しはましな場所に流れ着くしかないのだろうか?
今の私は正直幸せだG社は私の愚痴に多少は金銭を払ってくれるし、今の業務だって私にあっている。
最近はある程度の話相手だっている。
衣食住には満足している。
しかしこれはきっとずっと続くものではない。



後は現在の感情について一悶着あったり、今から書く文章はそれに付随するものなのだが何だろうと思う。
結局炎上系ユウチュウバーだろうと、人間関係だろうと主人公サイドであろうと、国際関係であろうが本人の中である程度懇意な,或いは懇意にしたい間柄、或いは感情的にプラスな相手になると矛先が鈍くなる。
それも何か可笑しいと思うけど、やっぱりある程度感情がプラスに働く人間については見方が甘くなる。

後は悩みが深い時期に文章が増えると、私は日記の記事は一日に一記事を理想にしているので後の調整が面倒くさい。
これが日記でなければ気にはならないのだが、私には日記は一日一記事と言う拘りがあり文章を書きすぎた日は違う日に文章を避けている。
あとG社が私の愚痴に多少の金銭を払わなくなったらどうしようと最近はよく考える。
質素なアイデンティティーの喪失だ。

山奥ニートは経済から自由になった訳でも老後の不安から解放された訳でもない。

山奥ニートとは、和歌山の山奥の限界集落で元小学校分校に住むニコ生主。
半無職で収入は短期のアルバイト(彼を取り扱ったテレビ番組では″近所の人の農作業の手伝いや″とナレーションがあるがそれ+短期のアルバイトと言われている所がポイント)。
確かに家賃は只のようだが収入は短期のアルバイトと言う所がポイントで結局彼は経済から自由になった訳でも、老後の不安から脱出出来た訳でもない。

しかしbライフの毎年寝太郎に影響を受けた人物と言うより京大卒のparさんの考え方に心を置く人なので人懐っこく、人間関係で恩恵を受けるタイプの半無職の生き方を実践している。
私もブログの始めたてはbライフの毎年寝太郎に憧れたが、彼は小屋暮らしへの憧れや、物珍しさを武器にアフィリエイトを稼ぐタイプで、正直私の狭い界隈では最近名前を聞かず最早積極的に小屋暮らしもしていないようなので(私が追っていた時期には彼は自身の小屋のカビの存在を認めて以降、対策はしたが積極的に小屋に帰らなくなっていった)、昔に比べてブログ全体のPVは落ちていると思う。
それに比べて私の興味の片寄りはあるが、同じ極力働かない事を心情にするparさんや進撃の無職のクラゲねこさんの知名度は上がっていき、両者の違いは積極的に人付き合いをしたか、していないかだ。

私は学歴も面白味も頭の良さもない毎年寝太郎みたいな性格をしているので、結局寝太郎のブログを酷く粗末にしたようなブログしか書けないが、本当はparさん方面の人付き合いをするタイプにならなくてはいけない。
無理だ。

弄られていて一番困るのは便乗してあること無いことを言うあまり面白くない人。

人を適切にいじるのは難しくて、上手くいじってくれる人の前ならサービス精神で多少は大袈裟なそぶりを見せる人もいると思う。
私は今までそうしてきたが、弄るのも弄られるのも本当に難しい。

大抵あるパターンは弄られる場合、多少は大袈裟なそぶりをしていたらその態度に便乗して多少のあること無いことを言う人が現れる事があり、それをそのまま放置すると人間関係が不穏になる。
だからそう言う場合は、今までの多少の大袈裟なそぶり素振りからは距離をとるしかなくなる。

人間関係の優位みたいな事を気にしてそう言う事(あること無いこと)を言うのは分かるのだが、仮にどうもそう言う事をするから毎回人間関係が上手くいっていないと言うような人間とはどう接したら良いのか。

デメリットが一杯になるからこちらも人間関係を見直すしかないが、多少は悪く言ってもらっても全然良い。
ただ此方の足元を見るような事をされてまで、今まで通りの付き合いもする訳にもいかない。
結局話題作りの為にそう言う話をしていて、こちらが距離をとった時の表情を見れば今まで何回そう言う事で人間関係を失敗したのかが分かる。
私としては限度を超えなければ付き合いたいが、限度を超えるなら付き合えない。
別にその人が口惜しそうにしている姿が見たい訳でもないし、何で丁度良い段階で辞めておけないのかと苦々しく思う。

私は寂しい人間、仮に相手も寂しい人間同士ならどうしてそんな事で、距離をとり自分から孤独に近づくような事をしなくてはいけないのか。

論破は意外と意味がない。

仮に論理の破綻があったとしてもそれを指摘して意味があるのは二種類の人間しかいない。

・論理の破綻があったと受け入れられる人。
(指摘されても論理の破綻はないと、こちらが納得いくように説明してくれる人。)

・論理の破綻があったと多くの人に示さなくては多くの人を騙してしまう影響力のある人物や集団、或いは思考。

それ以外に論理の破綻を指摘してもあまり意味がない。
仮にすでに皆が矛盾していると知っていて、それを周りに知らしめる必要のない影響力のない人物に対して論破したいと思った所で、既に皆が矛盾している事を知っている時点で、今までいくら人が矛盾を指摘しても考えを改めなかった人間だ。
そんな人間に対して、まだ論破を指摘したいのなら、後は意味のない会話になるだけだ。

勿論現実で論破なんて言葉を使っている人間を私は今の所見たことがないので、これはいつものネットの話だ。

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